やってもやっても思うようにいかないことに気が付くと、大人になったしるしらしい。

10年前の誕生日、高校の友達から貰ったCDはCoccoのポロメリアだった。
今もたまに聴くと当時の心情を思い出す。

本気で怒りたくてもうまく怒れず、悲しみを爆発させたくても思うようにできず
表情に出さなければつけこまれ
聞き分けの良い子をし続けて行くことが癪で、言うなれば
無理矢理自分の感情のフタのようなもの、をこじ開けてしまったという自覚がある。
・やってはいけないことを言ってしまえ
・言ってはいけないことをやってしまえ
ターニングポイントは彼処にあることは間違い無いのだと思う。
俗に言えばプッツンした。
その頃の自分を責めたところで今更どうしようもないし、
責任を取るためには今の自分自身がそのフタをより元の位置まで戻すということなのだろうけれど
10年かかっても未だに上手くいかない。
後片付けの方が面倒なので、ひっくり返すような事はしなくなったけれど
フタとの間に少し隙間がある方がつらくないことも、今は多分知っている。
考え続けるということは腕組みのポーズをして唸り声をあげることではない。
言語化しなければ何が問題すらわからず、解決を導きだすこともない。
絵画や音楽のように記号化させることが芸術活動だとしても、
心を揺さぶるものを作り出せる人達が自分の本質と向合うことを怠っている訳は無いと思うので
それは言語化を避けて良い理由にはならない

最近はまた健忘が酷い。
忘れないように、忘れないようにと頭の先に集中させて1歩1歩意識して歩いているのに、30歩進むうちに本気で分からなくなる日がある。
一番酷い症状としてあった、時間単位で意識が切り離されるほどではないけれど、あまり思わしく無い。
ふと思い立った時に携帯に入力してその証を残す、という行為をしなくなってしまったためでもある気がしてこうやってブログを再開させるに至る。
今回のこれは、ふとした時にメモを残す→ある程度溜まったら改めて書き直す に形式を変えてみた

記号や数字と向合うとどこか安心するのは、取り繕って良い子を演じようとしていた過去の自分が得意だと言い張って思い込もうとしていたものだからかもしれない。
思い込みの力さえあれば何でも通用する年頃というものがある。
できると思い込んでやってしまえば、出来てしまった。
やってもやっても思うようにいかないことに気が付くと、大人になったしるしらしい。